前回に引き続き、「宇宙戦艦ヤマト」について語らせていただこう。
今回は、あの衝撃作――**「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」**である。
◆テレビで見た“予告編”だけで心を持っていかれた
新作映画が公開されるということで、当時はテレビでも特番が組まれていた。
見覚えのあるあのテーマ曲が流れ、新たな巨大な敵・白色彗星帝国が地球に迫る。
増強された地球防衛軍、新造戦艦アンドロメダ、新型艦載機コスモタイガー――
もう、かっこよすぎる。少年の心に火がつかないはずがない。
世の中は盛り上がっていた。でも――
小学生の私には、映画館がどこにあるのかもわからなかった。
どうすれば観に行けるのか、大人に聞くこともできず、
「映画を観に行く」という行為自体が、まだまだ非現実的だった時代だ。
◆それでも諦めきれず、小説版で出会った“さらば”
あきらめきれずに手に取ったのは、小説版だった。
少しだけ挿入されたカラーページのフィルムストーリーを何度も眺め、
文字で描かれる戦闘シーンを脳内でアニメーション化し、
読んでは想像し、想像しては震えた。
そして、デスラー復活――!
かつての敵が、今度はヤマトを助ける展開に心躍らせた少年ヒカル。
が、そこから物語は一気に暗転する。
◆えっ、森雪が……? えっ、真田さんも……? えっ、古代が……?
白色彗星帝国の猛攻。森雪も負傷し、そして――死亡。
ヤマトは動力炉を破壊するため、内部に潜入するが――真田さん、死亡。
「えっ……ちょっと待って、次々に死んでいく……どうなってるの?」
読み進める手が止まった。受け入れきれなかった。
ようやく白色彗星帝国を倒したと思ったそのとき――
出てきたのは、超巨大戦艦。
すでに満身創痍のヤマトには、もう戦う力が残っていない。
そして古代進は、単機で突撃し――永遠の旅立ち。
◆「えっ、古代って、死んだの?」衝撃と混乱のラスト
テレサがいたじゃん?
助けてくれるんじゃなかったの?
「永遠の旅立ち」ってなに?
死んだってことなの……?
当時の私は、主人公が“死ぬ”という物語を理解できなかった。
だって、主人公は絶対に生き残るもんだと思っていたから。
死が明確に描かれているわけではなく、余韻を残した演出。
それが余計に混乱を招いた。
◆「どうすれば古代は死なずに勝てたか?」作戦を何度も妄想した
私は考えた。子どもなりに必死に考えた。
どうすれば、古代は生き残れたのか――。
ヤマトは波動砲で彗星のガス体を取り除き、
動力炉を破壊して要塞都市を無力化したが、
その後に出てきた超巨大戦艦には手も足も出なかった。
「デスラーが中心核を狙えって言ってたよね? じゃあ最初からそれを狙えば……」
「アンドロメダの拡散波動砲があれば、戦えたんじゃ……」
「そもそも、テレサがもっと早く来てくれればよかったんじゃ……?」
戦略ゲームのように、自分なりの“勝ち筋”を何度もシミュレーションした。
でも、どれだけ考えても、物語の中の古代は、命を懸けてヤマトを導いたのだった。
◆アニメで観た「さらば」は、大学生になってからだった
そしてようやく、大学生になってから本編を観ることができた。
映像の力は圧倒的だった。
波動砲の輝き、艦隊戦の迫力、そしてラストの特攻――
「さらば宇宙戦艦ヤマト」は、やっぱり衝撃の作品だった。
主人公が死ぬという、子どもには受け入れがたい現実。
でもそれを乗り越えた先に、「命を懸ける覚悟とはなにか?」という問いが残った。
◆“さらば”は、アニメと人生の境界線だった
この作品は、私にとって“アニメは子ども向け”という壁を壊した一本だ。
アニメでこんなに深く、重く、哀しい物語が描けるのか――
そう思った瞬間から、私のアニメ人生は“戦士”として始まったのかもしれない。
そして今、あの時と同じ問いを、こうして令和の時代に語っている自分がいる。
さらば宇宙戦艦ヤマト。
あれは、ただの映画じゃなかった。
魂を揺さぶるメッセージをくれた、不朽の名作だった。
◆“特攻”という言葉を、私はまだ知らなかった
小説を読み終えたあとも、私はどこか納得できなかった。
「古代は死んだ」という結末を、どうしても受け入れられなかった。
だって、明確に死ぬ描写はない。
ラストシーンにはテレサの姿があった。
あの神秘的な存在が、きっと古代と雪を救ってくれるはずだと、私は思い込んでいた。
「永遠の旅立ち」なんて、意味があいまいすぎる。
生きているとも、死んでいるとも、はっきり書かれていない。
これはまだ、希望がある物語なんだ――そう自分に言い聞かせていた。
◆それでも、知りたかった。本当のことを。
それからの私は、まるで答えを探す旅に出たかのように、
ヤマト関連の小説、ムック本、設定資料集を片っ端から読みあさった。
別の小説では、「古代は艦と共に沈んだ」と書かれていた。
ムック本には、「さらば」は“自己犠牲の美学”を描いた作品であると解説されていた。
そして初めて、**“特攻”**という言葉に出会った。
ああ、そうか。
これは、死なんだ。
古代進は、自分の命と引き換えに、人類の未来を守ったんだ。
◆ようやく、私は“さらば”の意味を理解した
私はそのとき、ようやく本当の意味で「さらば宇宙戦艦ヤマト」を理解したのだと思う。
主人公は、生き残るのが当然だと思っていた。
どんなに絶望的でも、最後には勝って帰ってくるはずだと信じていた。
でも、この物語はそうじゃなかった。
愛する人を失い、それでも前に進み、最後にはすべてを捧げる覚悟。
それが、「さらば」だった。
◆子どもだった私は、ヤマトに教えられた
あのとき、私はまだ“死”という現実に真正面から向き合ったことがなかった。
大切な人を失うことがどういうことかも、わかっていなかった。
でも、古代進の旅立ちは、確かに私の中に何かを残した。
命とはなにか。生きるとはなにか。愛するとはなにか。
それは、大人になった今でも、問い続けているテーマだ。
そして私は思う。
子どもだった私に、あんなにも深いテーマをぶつけてくれたヤマトという作品は、やっぱり本物だった。
◆そして、ヤマトは心の中を航海し続ける
あれから何十年という時が流れた。
私は今、アニメを語ることを生きがいとしている。
ヤマトのような名作に出会い、魂を震わせたあの日々が、
今の自分を形づくる礎になったのだと、胸を張って言える。
「さらば宇宙戦艦ヤマト」は、決して優しい物語ではなかった。
けれど、あれほど心をえぐられ、心を揺さぶられた作品は、そう多くない。
子どもだった私は、主人公が死ぬことを理解できなかった。
でも、だからこそ、何度もページをめくり、何度も心の中で語り直した。
そしてやがて、それを受け入れ、前に進む力をもらった。
そして思うのだ――
私はこの体験によって、“アニメとは人生に問いを投げかけるもの”だと知った。
たとえ本編を観ていなくても、小説の数ページ、断片的なカラーフィルム、ムック本の解説。
そのすべてが、子どもだった私の心を確かに揺さぶった。
◆アニメを“感じる”とは、魂の中で作品が生きること
アニメ本編を観ていないのに、ここまで心を掴まれた経験。
それは、のちに私が出会うもう一つの運命的な作品――
**『宇宙戦士バルディオス』**にもつながっていく。
あの作品もまた、救えなかった未来を描いた物語だった。
バルディオスを初めて観たとき、私はこう思った。
「これは“さらば”で感じたあの衝撃と、同じ震えだ」と。
滅びの運命に抗う者たちの物語。
それでも希望を捨てず、信じた道を進む者たちの物語。
私の中で、ヤマトとバルディオスは静かにつながっていたのだ。
アニメは、ただの娯楽ではない。
人生に問いを投げかけ、感情の波を起こし、時には未来の自分すら導いてくれる。
そして今もなお、ヤマトは心の中を航海し続けている。
宇宙戦艦ヤマト――“アニメ四十年戦士”の原点となった作品。
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